こんにちは。Genius Rushの笹原です。
僕には、今の自分の「人との関わり方」を作った原体験がいくつかあります。
その一つが、子どもの頃に観た『火垂るの墓』です。
かなり強烈なインパクトを持つ映画ですので、内容について改めて触れるつもりはないのですが、この映画を通して体験した「大人」との関りから、今の僕の根本的なスタイルが生まれました。
1 「作者の伝えたいこと」を発表する授業
小学生の頃、学校の授業で『火垂るの墓』を観て、「作者がこの作品を通して伝えたかったことは何でしょう?」という事を考える授業がありました。
(結構デリケートな内容なんだと思うけど、今でもこういう授業あるのかな?)
子どもなりに作品を観て、僕が感じたことを発表しました。
正確な言葉は覚えていませんが、
「自分の好き勝手にやっていたら、周りの人から孤立してしまう。
だから、人とつながって生きることが大切なんじゃないか」
という内容を言ったと記憶しています。
僕は、清太の生き方や周囲との関係性、そして悲惨な結末を見て、そう感じたのだと思います。
もちろん、当時から今に至るまでずっと戦争には反対です。
そしておそらく、今後もこの考えが変わることは無いと思います。
でも、僕がこの作品から一番強く受け取ったものは「戦争反対」というメッセージではありませんでした。
ところが、当時の先生から返ってきた言葉は、今でも覚えています。
「この映画を見て戦争反対と感じないなんて、人の気持ちが分からないやつだ。」
その時の先生の表情や声のトーンまで、今でも覚えています。
一般的に、カっとなって怒鳴るというようなイメージを持ってもらえば、大きなずれは無いと思います。
30年以上たった今でも忘れられない。
それくらい、僕にとっては強烈な出来事だったのでしょう。
2 納得できなかった絶望
普通なら「先生がそう言うなら、そうなのかな」と考えてもおかしくありません。
でも、なぜか納得できなかった。
「いや、僕はそう感じたんだけどな」
という感覚が強く残りました。
僕が「戦争反対ではない」と言っているわけではありません。
戦争には反対です。
ただ、
「この作品を観て、僕が何を感じるべきかまで、誰かに決められたくない」
という感覚が僕の中にあったのだと思います。
そして、大人になってから、この作品について少し調べたことがあります。
すると、作者である野坂昭如さん自身も、必ずしも「戦争反対」という一つのメッセージだけを作品に込めたわけではない、という趣旨の情報を目にしました。
もちろん、それが本当に作者の「最大の意図」だったのかは、僕には分かりません。
そもそも、作者本人にしか分からないこともあるでしょう。
だから、今でも僕は、
「僕の子どもの頃の解釈が正しかった」
「先生が間違っていた」
と言いたいわけではありません。
ただ、「僕が感じたことを、誰かに一方的に間違いだと決めつけられたこと」
については、今でもかなりの抵抗感、拒否反応があります。
3 人の気持ちは、そんなに簡単に分からない
今になって振り返ると、この経験は僕の人との関わり方にかなり影響していると思います。
僕は、人の話を聞く仕事をしています。
コーチングをしたり、NLPを教えたり、経営者やコーチ、コンサルタントなど、いろいろな人の相談に乗ったりしています。
そこで、いつも意識していることがあります。
「この人は、こういう人だ」と勝手に決めないこと。
そして、「この人は、本当はこう思っているはずだ」と、分かったつもりにならないこと。
もちろん、僕なりの仮説は持ちます。
相手の言葉や表情、声のトーン、行動、その他色んな情報を観察して、
「もしかしたら、こういうことなのかな?」
と見立てることもよくあります。
でも、その見立てはあくまで僕の推測でありただの仮説です。
相手の中にある「本当の答え」ではありません。
だから、僕は自分の見立てを絶対視しない。
「僕にはこう見えたけど、実際はどうなの?」
と確認する。
あるいは、あえて確認せずに、そのまま置いておくこともあります。
人間の内面なんて、そんな簡単に分かるものではないからです。

4 「分かってあげる」ことは優しさなのか
支援する側になると、
「あなたは本当はこうなんですよ」
と言いたくなることがあります。
本人も気づいていないことを見つけてあげたい。
苦しんでいる理由を教えてあげたい。
本当の気持ちを言語化してあげたい。
そういう欲求は、支援する側には少なからずあると思います。
でも、僕はそこに少し怖さも感じます。
なぜなら、支援する側がクライアントに対して
「あなたのことを、あなた以上に僕は分かっています」
という構造になりやすいからです。
それは、とても強い影響力です。
構造をみれば、思考の「支配」とすら言えます。
だから僕は、自分の見立てを持ちながらも、それを相手にできるだけ押し付けないようにしています。
僕のセッションはできるだけ「何もしない」ことを意識しています。
(詳しくは こちらから)
もちろん、完全に押し付け無いという付き合いは限りなく不可能に近いと思います。
僕自身の価値観や考え方が、セッションに影響していることも自覚しています。
「完全に中立な支援者」なんて、僕は存在しえないと思っています。
だからこそ、自分の影響力を自覚しておくこと。
そして、自分の解釈を「事実」だと思い込まないこと。
これだけは忘れてはいけないと思っています。
5「鏡」でありたい。でも、鏡だと思い込まない
僕は、自分のセッションを「引き算」だと表現することがあります。
何かを教える。
正解を与える。
相手をこちらの望む方向へ変える。
そういうことよりも、
その人自身が持っているものが、その人にちゃんと見えるようにする。
そのために、必要のないものを少しずつ外していく。
本人が見えていないところに光を当てる。
そんなイメージです。
だから「鏡」という表現も使います。
でも、最近は「鏡」という言葉さえ、少し危険だと思っています。
鏡だって、常に完全な姿をそのまま映し出すわけではありません。
どこに置くかによって、見えるものは変わる。
どの角度から見るかによって、映るものも変わる。
屈折率によっては歪みが生じたりもする。
ましてや、僕はただ黙って反射しているだけではありません。
質問もするし、意見も言う。
時には、かなり踏み込む。
だから僕は、
「僕が相手を分かっている」のではなく、
「僕との対話を通して、相手が自分自身を分かっていく」
くらいが、ちょうどいいと思っています。
6 今考える、あの先生の言葉
今になって考えると、あの先生も僕を傷つけようと思って言ったわけではないのかもしれません。
推測ですが、先生には先生の「この作品から学んでほしいこと」があったのでしょう。
戦争の悲惨さを伝えたかった。
戦争について考えてほしかった。
そんなところでしょうか。
それ自体は、悪いことではありません。
むしろ教育者として、当然の思いだったのかもしれません。
ただ、
「こう感じてほしい」と
「あなたはこう感じたはずだ」は違います。
ましてや、「あなたはこう感じなければいけない。」はさらに違います。
僕は戦争反対という思想を持っています。
平和や人の命は大切だという価値観もかなり強く持っているつもりです。
でも、それを理由に、
「この作品を観たなら、こう感じるのが当然だ」
とは思いません。
人には、それぞれの見え方があります。
同じ映画を観ても、同じ本を読んでも、同じ人と話しても、受け取るものは違う。
そして、その違いそのものに、その人らしさが表れることもあります。
7 あの日の「抵抗感」が、今の僕を作っている
小学生の僕は、NLPもコーチングなんて知りません。
「ラポール」も「キャリブレーション」も「メタモデル」も知りません。
もちろん「地図は領土ではない」なんていう言葉も知りません。
ただ、
「僕はそう感じたんだけどな」
「僕はそう思わなかったんだけどな」
と思っていただけです。
でも、その小さな抵抗感が、今の僕の中にずっと残っています。
人の気持ちを勝手に決めない。
自分の正解を相手に押し付けない。
相手の言葉を、自分の都合のいい意味に変換しない。
「分かった」と思ったときほど、
本当にそうなの?
と、一度立ち止まる。
これは、僕が今、人の話を聞くときにかなり大切にしていることです。
もしかすると、僕が「人の気持ちは分からない」と何度も言うのも、ここが原点なのかもしれません。
もちろん、分かろうとはします。
分かりたいとも思います。
その意思はかなり強いとも思っています。
でも、分かろうとすることと、分かったつもりになることは違う。
僕は、その違いを無視することがどうしてもしたくない。
むしろ、「したくない」というより、「出来ない」といった方が適切かもしれません。
『火垂るの墓』から何を受け取るかは、その人の自由です。
僕が受け取ったものが、正解だったのかどうかも分かりません。
でも、少なくとも僕は、あの日の自分の感覚を今でも大切にしています。
そして、あの日の小学生の僕が感じた強く明確な拒否感が、今の僕の人との関わり方の一部になっている。
色んな人の見え方・考え方を大切にしながら、僕自身の見え方・考え方も大切にする。
引き続き、そんな感じでやっていこうと思います。









