最近、何人かのNLPの受講生の方から同じ質問をいただきました。
「フラットに、コントロールせず関わることが大切だとは思うが、どこまで行ってもフラットにいられるのか分からない。自分がジャッジしていないか、コントロールしていないか悩んでしまう。」

その言葉を聞いたとき、僕は正直に答えました。
「僕も正直分かりません。ずっと、これはジャッジではないか。
僕の世界観の押し付けではないかと常に悩んで揺れています。
ただ、この問いを自分に持てている間は健全だとは思っています。」

その直後、ふとした瞬間に、
「あ、そういえば、あるクライアントから似たようなことを言われたな…」
という、昔の記憶が蘇りました。

1 かつての苦い記憶

それは2年以上前のことです。
当時、継続的に関わっていた経営層のクライアントがいました。
その方は、自分の思考をより多角的に検討したい、世界観を広げたいという欲求を持っていらっしゃいました。

数カ月の間、僕は、「フラットであること」「ジャッジしないこと」というルールに忠実に、
できるだけ自分の違和感や意見を伝えることを我慢していました。
質問と承認に徹しようとしていたのです。

ところがある時、その方からストレートに言われました。
「もっと笹原さんの意見や考えも聞きたい。じゃなければ笹原さんにお願いする意味が無い。」

その言葉は、僕に衝撃を与えました。
それまでの数か月は、そのクライアントにとって、ただ「聞かれているだけ」の物足りない時間だったのでしょうか。
必要があれば、批判的な意見ですら欲しがっていらしたのに、僕はそれを見誤っていました。
「フラットである」「ジャッジしない」というルールに縛られて、クライアントが本当に求めているものから目を背けていたのです。

2 苦い記憶と今

受講生からの質問に答えた直後、
「あ、あの時のクライアントが言ってくれたことって、実はこういうことだったのか。」
と、妙に納得しました。

その時は、確かに衝撃を受けて、セッションのスタイルも変わりました。
それが今のセッションにもつながっています。
(今のセッションスタイルはこちら
でも、明確には言語化されないまま、長く記憶の底に沈んでいました。
そして受講生の問いで初めて、その経験が僕に教えてくれていたことが、ぼんやりと形を持ち始めました。

3 「フラット」は誰の為のものか

「フラット」も「ジャッジしない」も、そもそもそれは誰の為なのでしょうか。

クライアントの為なのか?
それとも、自分が「良いコーチである」と見られたいという、自分の為なのか?
もしかしたら、「間違った指導をしてはいけない」という自分の恐れから来ているのでしょうか?

本当に誠実に考えてみれば、それは少なくとも「コーチである僕の為」ではないことだけは確かでした。

完全にニュートラルに振る舞うことで、自分の責任を回避していたのかもしれない。
完全にフラットであろうとする努力は、実は、僕自身の不完全さから目を背けるための「アリバイ工作」だったのかもしれない。

4 「完全なフラット」は不可能

そもそも、人間である以上、完全にフラットになることはほぼ不可能です。

人間は無限の情報の中から、自分の関心や過去の経験に基づいて「何に注目するか」を選別します。こ
また、自分の既存の信念を支持する情報は無意識のうちに探し、反対の情報は無視する傾向があります。
そして、自分の経験から無意識に形成された「こうだろう」という思考の枠組みに基づいて、その情報を解釈しています。
どんなに知的でメタ認知能力が高い人でも、人間のこの構造から完全に自由になることはできません。
自分脳が勝手に「選別」した偏った情報を、自分のルールで「解釈」した世界で生きています。
良い悪いではなく、「そういうもの」です。

そして、そんな基本構造を持つ人間が「完全にニュートラルであろう」という努力は、実は「自分の認知バイアスを意識する努力」でしかなく、それを完全に「消す」ことはできないということです。
人間は、本来的に、何かしらのバイアスを通してしか世界を見ることができないからです。

5 迷い続けることの本当の意味

だから、本当に大切なのは、実は別のところではないかと考えています。。

完全なフラット性を目指すのではなく、自分の認知バイアスが存在することを認めながら、それでもクライアントが本当に求めているものに応える姿勢を失わないこと
自分の意見や見立てを持ちながらも、「でも、これが絶対的な正解ではない」という謙虚さを同時に持つこと。
その両立の中で初めて、本当の対話が生まれるのだと思います。

受講生からの「フラットにいられるのか分からない」という問い。
それは、実は、その受講生自身の誠実さの表れなのだと思います。
完全な答えを目指さず、常に「これでいいのか」と問い直す姿勢。
その揺らぎを決して手放さないこと。
それこそが、クライアントの自主性を奪わないことへの、真摯な配慮と責任感の表れのように感じられてなりません。

6 迷わなくなった時が、危ない

「もし僕が、ある日『これが正解だ』と疑わなくなったら、どうなるか」

その時、僕はセッションをやめるべきなのかもしれない。
むしろ、迷わずに辞めようと決めています。
迷いがなくなるということは、自分の世界観が絶対的に正しいと信じ込む状態だからです。
そうなれば、クライアントはもはや「対話の相手」ではなく、「自分の価値観に従わせる対象」へと変わってしまいます。

それは、コーチではなく、単なるマニピュレーター(操作者)です。
だから、「迷い続けること」は、実は僕にとって「セッション続行資格証」なのだと思います。

最後に

受講生からのその質問「フラットにいられるのか分からない」。
数年前のクライアントからの「笹原さんの意見も聞きたい」という言葉。

それらすべてが、実は、
「笹原さん、あなたは本当に迷い続けていますか?」 「あなたの『フラット』は、本当にクライアントの為ですか?」 という僕自身への問い直しだったのかもしれません。

受講生たちからもらう質問も、クライアントの要望も、すべてが僕の思い違いの芽に気づかせてくれます。
その苦さや痛みを受け止められなくなったとき。
迷わなくなったとき。
それは自分がセッションをやめるときなのかもしれません。

僕はその警告を、いつも心に留めておきたいと思っています。

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